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源平とその周辺 |2013.06.28

源平とその周辺:第55回 義経の家臣

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 平宗盛は悔やんでいた。あんなにわずかな軍勢であるならば、早々に逃げなくてもよかったのに。せっかくこしらえた内裏まで焼かせてしまったとは無念極まりない。「能登殿(教経)はいらっしゃるか。陸に上がってひと戦をしてきなさい」。そう宗盛に言われた教経(清盛の弟教盛の子)は、盛嗣(一の谷で猪俣則綱に殺された盛俊の子)とともに小船に乗って渚に陣をとった。盛嗣は大声で言う。「先ほど名乗られたようだが、海を隔てていたのでよく分からなかった。今日の源氏の大将軍はどなたでいらっしゃるのか」。伊勢三郎義盛は返す。「言うまでもない。清和天皇の御子孫で、鎌倉殿(頼朝)の弟、九郎大夫判官殿(義経)であるぞ」。それを受けて盛嗣、「そうそう思い出した。平治の合戦で父が討たれて孤児となり、鞍馬寺に入ったのちに金売り商人について奥州へ落ちていった若者のことか」。伊勢三郎も負けてはいない。「主君のことを軽々しく言うな。お前たちは砥波山(俱利伽羅峠)で追い落とされて命からがら泣く泣く京都に上ってきた者か」。「そういうお前こそ伊勢の鈴鹿山で山賊をして妻子を養っていると聞いたぞ」。金子家忠はあきれて「何の役にも立たない悪口の言い合いだな」と言い、家忠の弟は盛嗣に向けて矢を放つ。詞戦い(ことばだたかい・罵りあいの口合戦)は、止んだ。
 さて都で一番の強弓を引くとして知られる猛将、教経は義経を狙う。しかし源氏方は義経を守るべく佐藤継信、忠信兄弟、伊勢三郎や弁慶などが馬の頭を並べて立ちふさがる。「雑兵ども、お退きなさい」と、教経は矢をつがえては次々と放つ。真っ先に義経の矢面に立った佐藤継信が射抜かれて、馬から逆さまにどっと落ちた。教経方から菊王という者が継信の首をとろうと走りくる。忠信は、「兄の首は絶対に取らせない」と菊王を射通す。教経は討たれた菊王を急いで引き取り自分の船へと投げ上げた。彼の死を哀れみ、教経は戦うのをやめた。
 義経は陣の後ろへと継信を担ぎ入れさせた。「継信、具合はどうか」と手をつかみ、聞く。絶え入りそうな声で「もはやこれまで、と思われます」と答える継信。「思い残すことはないか」。義経は、必死に尋ねた。
【写真】高松市登録史跡『佐藤継信の墓』。寛永20(1643)年、初代高松藩主松平頼重により建てられた。(香川県高松市牟礼町)写真提供=高松市
著者:新村 衣里子
■プロフィール
お茶の水女子大学大学院博士前期課程修了。元平塚市市民アナウンサー。平成16年ふるさと歴史シンポジウム「虎女と曽我兄弟」でコーディネーターをつとめる。『大磯町史11別編ダイジェスト版おおいその歴史』では中世の一部を担当。成蹊大学非常勤講師。

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